彼女の福音
伍拾壱 ― 答 ―
「……やんのかよ、岡崎」
長い沈黙の後、春原が低い声で言った。そしてしばらくしてから
「上等だ。ついてきやがれ」
朋也も、底冷えするような声でそれに応じた。
玄関で無言のまま靴を履く二人。こうなるかもしれないとは昨日聞かされていたのに、いや、恐らくはこうなると朋也が言っていたのに、私はそれでも心配になって玄関まで来た。しかし、玄関をくぐる時に朋也は一度だけ振り返り、そして私を見た。
視線が私に告げていた。心配するな。俺が何とかする、と。
ドアが閉まった後、私はその視線の意味を考えた。そしてため息を一つ軽く吐いて、家の電話の受話器を手に取った。出ないんじゃないかと思うほど長いコール音の末に、かすれた声が聞こえた。
「杏か?私だ。ああ、その、何だ。ちょっと大事な用があるんだが、これからこれないか?」
杏の声が、か細く聞こえた。
「そうか、すまない。では私たちの家の近くにある公園まで来てくれないだろうか。ああ、うん、そこだ。傘を忘れないでくれ。降り始めているからな」
そうやって電話を切ると、私は傘を持って家を出た。
こうなることは解っていた。解っていたのだけれども、見ていて辛かった。
朋也がまず春原を殴った。普段は怒ったりしない朋也が。いつも人に優しい朋也が。よりにもよって自分の親友を本気で。そして春原も殴り返した。朋也の顔の痛みが、自分の物であるかのように感じられる。
でも、それでも私は二人を見守るだけだった。雨の中で、殴りあっている二人を見ているだけだった。時折聞こえる声に葛藤を感じ取りながら、私はじっと二人を見ていた。
「智代っ!」
青い傘を片手に、杏が走ってやってきた。
「どうしたの……って、何あれ!」
飛び出していこうとする杏の手を、私は掴んだ。
「ちょっと、放してよ!あの二人止めなきゃ」
「すまないが、できないんだ」
「できないって……智代、朋也と陽平が喧嘩してるのよ?!早く止めないと……」
「岡崎が救ってやればいいじゃないかっ!」
急に春原が怒鳴った。それで足を止める杏。呆然となる朋也に、更に春原は畳み掛ける。
「岡崎なら、何とかしてやれるだろ?智代ちゃんだって岡崎のおかげで桜は守れた。椋ちゃんだって岡崎と一緒に説得したから勝平と一緒になれた。渚ちゃんだって、有紀寧ちゃんだって、お前が今まで笑わしてきたんじゃないかよ」
違う、と思った。確かに朋也は今までいろんな人と関わって、いつの間にかいい方向へと事態を導いてきた。でも、それは一人でできたことじゃない。朋也の傍には春原がいて、絶対に朋也が悩んでいる時に春原が手助けをしたことだって、あるはずなんだ。
春原、知らなかったのか?お前だって充分、みんなを笑わせてきたんだぞ?お前だって、充分すごいんだぞ?何だ、そんなことも知らなかったのか。仕方のない奴だな。
「だったら何でお前、杏を笑わせてやれないんだよっ!何で一番長い間一緒にやってきた杏を救ってやんねえんだよっ!」
そう言いながら、春原が拳を振りおろした。ごす、と鈍い音がした。
「……智代」
「何だ」
「何、やってるの?何で、あたしのことで二人が喧嘩してるのよ?」
縋るような目で杏が私を見据えた。私はぎこちないながらも、何とか笑って見せた。
「何、簡単なことだ。二人とも喧嘩できるほど杏を大事に思っているってことだ」
「え……」
「まったく、私という者がいながら他の女のことで喧嘩するなんて、いけない奴だ。本当なら離縁する理由になってもおかしくないんだぞ?」
「……智代」
私は杏ににやりと笑って見せた。今度はうまくいった。
「まあ、でも杏なら仕方がないかもな。相手が杏なら、諦めもつく」
「……でも、陽平は」
視線を朋也と春原に戻した。
「春原の本音は、まだ誰も聞いていない。私だって知らないし、もしかすると春原自身知らないのかもしれない。だから、ああやって本気で殴りあってるんだと思う」
「……馬鹿みたい」
「ああ。全く同感だ。しかしな」
そこで笑って見せた。
「お前のために二人とも馬鹿になってるんだ。悪い気はしないだろ?」
「……ほんと、馬鹿よね」
「ああ。それがいい男って者だ」
その時
「好きに決まってんだろっ!!」
春原が怒鳴った。
「ああそうさ!僕はあいつのことが好きだ!好きで好きでしょうがねえんだよっ!」
馬乗りになったまま、春原は朋也に言葉を叩きつけ、拳を打ち付けた。しかし、徐々にそれは勢いを失い、遂に春原は腕をだらりと垂らして、俯いた。
「ずっと好きだった。一緒にいられて、心底楽しかった。これからもずっと一緒にいられたらって、そんなこと考えたりしたさ」
その一言で、杏が息を呑んだ。
「頭おかしくなっちまうほど好きで、時たま会社でもぼっとすんなって怒られた。ああそうさ、よくあったさ、ふと気がついたらずっと杏のことしか考えていなかったって事」
そして、息を吸い込んで一言、言った。それは呟きにも似ていたのに、なぜかちゃんと私たちのところまで届いた。
「僕は、杏が好きだ」
それを聞いて、杏の肩がびくんと震えた。
「ねえ、聞こえた?」
静かな声で、杏が私に聞いた。
「ああ。しっかり聞こえたな」
「嘘……じゃないわよね?聞き間違いじゃないわね?」
「嘘なんかじゃない。絶対に聞き間違えてない。春原は、お前を愛している」
その言葉で、杏は大きく息を吐き出した。白い息が宙を舞う。ふとすると倒れてしまいそうだったから、肩を抱いてやった。思ったよりも冷えていた。
「あたしのこと、好きって、好きって言ってくれたよ、智代?ねえ、陽平が……」
「ああ」
「嫌われてなかったのかな、智代?ねえ……」
「そうだな。でもまだ迷ってるようだな」
「え?」
「お前は、あいつに言わなきゃいけないことがあるんだろう?あいつに、解ってほしいことがあるんだろう?」
「……」
「その言葉で、あいつを導いてやれ。今度は、お前の言葉を聞かせてやれ」
そう言って、私は杏の背を押した。杏は私の方を見ると、しばし迷ったような表情をしたが、すぐに力強く頷くと、ゆっくり、一歩ずつ踏みしめるように春原が倒れているところまで歩き始めた。
その後ろ姿を見て、私は苦笑すると、忘れ物を取りに家に戻った。
二人の間には、雨の音に支配された長い距離があった。
「ずっと、聞いてたのかよ」
気まずい沈黙を破ったのは、春原の問いだった。それに対して、杏は小さく頷く。
「うん、聞いてた」
「もしかすると全部見てた?」
「うん、見てた」
春原は泣きそうな顔をすると、顔を背けて自嘲した。
「ははっ、うわマジでカッコ悪いね、僕」
しばらくして、杏が答えた。
「うん、カッコ悪いわね」
「……グゥの音も出ないや」
「でも」
強い口調で杏は続ける。そして一歩ずつ踏みしめるように春原の方に歩いていった。ぽろり、と手から傘が落ちたが、気づいてすらいないようだった。
「それでも好きだから。あんたのことが好きだから、馬鹿」
そして体を起こしている春原に抱きついた。その重みで、二人とも雨に打たれながら倒れ込む。
「他の誰でもない。あたしは陽平が好きだから。あんたの傍にいて、あんたと笑っていたいから。だから」
その胸に顔を埋め、震える声で言った。
「だから、もう逃げないでよ。あたしの傍にいてよ。ねぇ、お願いだから、陽平」
ゆっくりと、春原の手が杏の頭に触れた。泥が髪につくのも厭わず、杏はその手に自分のそれを重ねる。
「ほんとにいいの、僕で?」
「うん」
「ヘタレだぜ、僕」
「知ってる。それでも」
「頑張るけど、頑張ろうとするけどさ、追いつけないかもしれないぜ?」
すると杏は春原の頬を両手で触れて、じっと目を覗き込んだ。
「それでもいいわよ。どうしてもっていうんだったら、あたしが手を引いてあげるからさ」
「……ほんとに、僕でいいの?」
杏はそこで笑った。うまくはいかなかったかもしれないが、涙に彩られてはいたが、それは確かに笑顔だった。
「あんたじゃなきゃだめなんだって、馬鹿」
そう言って、杏は春原を抱きしめた。おずおずと抱きしめ返す。
「ごめんね、杏。逃げたりして、マジごめん」
返ってくるのは、杏の嗚咽だった。
しばらくすると、杏の肩に、手が置かれた。
「智代……?」
「すまない、忘れ物だ」
「……え?」
「お前なら使い道がわかると思ってな」
そう言って杏に手渡された物は、一冊の聖書だった。
「……全く、あんたもわかってるじゃないの」
「女の子らしいだろ」
胸を張ってえっへんとする智代に笑いかけながら、杏はその聖書を
「あいてっ」
春原の頭に落とした。
「って、何するんだよ」
「ほら、とっととこれで牧師さんでも何でも見つけて来なさい」
「え……あ」
「『え』じゃないわよ。早くしないと、大変な目にあうわよ」
「は、はひっ!」
言うが早いか、春原は急いで立ち上がって、走り去って行った。
「何だかねぇ……」
「ちなみに言っておくが、この近くに教会はないからな」
「……ま、いっか」
しばらく首をかしげていた杏。しかし肩をすくめると立ち上がった。
「いいのか?仮にもお前の夫になる男だぞ?」
すると、杏は思いっきりの笑顔を智代に見せた。
「だって、頑張るって言ってたじゃない?」
雨、か。
そう言えば、何だかずいぶんと静かになった。さっきまで殴りあっていたのがウソみたいに静かだ。雨の冷たさが心地よかった。痛みも和らいで、このまま寝ちまいそうだ。
「朋也、もうそろそろ起きろ。ここで寝ると、風邪をひくぞ」
と思っていると、ちょうど智代がやってきた。
「しかしお前も馬鹿だな」
「そうだな」
「本気じゃなかったんだろ?」
「いや、どうかな?」
「だってお前、春原の顔は殴ってなかったじゃないか」
気づかないとでも思ったか?と腰に両手をあてて智代は言った。確かに、首から上は避けて殴っていた。おかげでこっちはぼろぼろだけど。
「だっけな?まあ、婚約と同時に会社クビになるってのも可哀そうだしな」
「お前の方がクビになったらどうするんだ」
「俺は客とかと顔をつきあわせる商売じゃないからな。夫婦ゲンカしました、とでも言っておくさ」
「それじゃあまるで私が暴力女じゃないか」
「いや、大丈夫だって。うちの事務所、お前のファンっぽいからな」
「そうなのか?」
「むしろ『今すぐ家に帰って俺の智代ちゃんに謝って来い』とか言われるだろうな。会社に行ってるから家にいねえっつーの。あと、智代は俺の嫁だって何度言えばわかるんだって」
その冗談に智代が笑った。霞んだ視界の中でも、智代は綺麗だった。
「しかし春原なら翌日には傷とかも治っているんじゃないか」
「……しまった、誤算だ。何発か殴っときゃよかった」
ふふふ、と智代が微笑んだ。そして頭がずらされ、気づけば膝枕されていた。ズキズキと痛む頭だったけど、幾分か安らげた。
「本当にお前は仕方のない奴だな」
その口調はしかし、母親が子供を慈しむかのようなものだった。
「まあな。でも、ああでもしないとあいつだって本音言ってくれなさそうだったしな」
ふー、と息を吐く。
「スカート、汚れちまうぞ」
「構わない。どうせお前の服も洗わなきゃいけないからな」
俺は泥だらけになったジーンズと半袖のシャツを見て苦笑した。
「……それもそうだな」
「ちなみに知ってるか?泥って落とすのが大変なんだぞ、馬鹿朋也」
やばい。うっかりしていた。
「あの、智代さん?」
「……」
怒ってるみたいだ。いや、まあ当たり前だが。
「えーと、その、何だ、わざとじゃないぞ?」
「……」
「……ごめんな」
「うん、まあ今回ばかりは許す。まったく、お前は仕方のない奴だな」
「まあな」
「こんなにボロボロになって……泥だらけになってまで……すまない」
「は?何が」
「元はといえば、私の頼みのせいだろ?私が頼んでいなけりゃ……」
「そりゃ違うよ。やっぱりいろいろ考えてみたら、俺も、結構あいつらが好きだからさ。やっぱ何とかしなきゃなって、そう思った」
「朋也……」
「だから。感謝してるんだ、お前に。そういう大事なことを気づかせてくれたお前に」
そう言うと、智代は眦に溜まった熱い雨を拭き取ると、俺の額にキスをした。
「大好きだぞ、朋也」
「愛してるぜ、智代」
俺は智代を引き寄せると、唇を合わせた。
「さてと」
そう言うと、智代は立ち上がって手を伸ばしてきた。
「家に帰ろう。お前の好きなカボチャのスープを作ろうと思うんだ」
いろんな所が腫れて、結構大変だったが俺はそれでも笑って見せた。
「ああ。そいつは楽しみだ」
立ち上がってできるだけ服の泥を払い、そして一歩踏み出して気づいた。
「あ」
「うん?どうした?」
「いや、ただ」
ふと空を見上げる。遠い向こうで、厚い雲を割って金色の光の柱が地面に降り注いでいた。雨はまだ止んでいないが、それは確かに、何かの終わりを告げる兆候だった。訝しげに俺を見ていた智代も、俺の視線を追って、そして立ち止まった。
「綺麗だな」
「ああ、とっても綺麗だ」